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 老爺心お節介情報 第76号

老爺心お節介情報 第76号

 皆さんお変わりなくお過ごしでしょうか。漸く秋めいてきてほっとしています。庭の畑では、三浦大根の芽が出、育っています。その後に蒔いた小株の芽も出てきました。夏野菜のシシトウは今でも収穫できます。10月は各地の研修で忙しい月ですが、体に気を付けて頑張ります。

(2025年10月1日 記)

そのときの出逢いが

出逢い そして感動

人間を動かし 人間を変えてゆくものは

むずかしい理論や理屈じゃないんだなあ

感動が人間を動かし

出逢いが人間を変えてゆくんだなあ・・・ 

(相田 みつお)

『「そのときの出逢いが」――私の生き方、考え方に影響を与えた人との出逢い』②

Ⅱ、日本社会事業大学卒業後から大学院修士課程修了を経て、日本社会事業大学専任講師就任までの時代―主に社会教育活動での出逢い

① 東大大学院修士課程入学から1970年

 筆者は、1967年に日本社会事業大学を卒業し、東大教育学部宮原誠一研究室の研究生になる。

 大学院に進学して、できれば研究者の道に進みたいと決意した日本社会事業大学の4年生の時には、おぼろげながら「社会教育と社会福祉の学際研究」をしたいと考えるようになった。

研究者の道への選択と研究テーマに大きな影響を与えてくれたのが、小川利夫先生が1962年、37歳の時に書かれた論文「わが国社会事業理論における社会教育観の系譜―その『位置づけ』に関する一考察」(日本社会事業大学研究紀要『社会事業の諸問題』第10集)であった。奇しくも、私も小川先生と同じようなテーマで修士論文を書くことになる(修士論文テーマ「戦前社会事業における『教育』の位置」)。

 大学院研究者への進学を志した日本社会事業大学の4年時は、相変わらず教育科学研究会などに出入りし、群馬県島小学校での実践で一世を風靡した斎藤喜博先生の研究会にも出入りし、教育実践の考え方、方法などについても学んだ(後に発刊された『斎藤喜博全集』を購入したが読み切れなかった。『島小の実践』等単行本の幾冊かは読んだ)。

 他方、社会福祉論(当時は「社会福祉学」とは言えず、「社会福祉論」であり、体系化された「社会福祉学」への構築を目指した。筆者が、「社会福祉学」を躊躇なく使用するようになったのは、2003年度から日本学術会議において日本学術振興会の科学研究費の細目として「社会福祉学」が認められ、「社会学」から独立した時からである)については、当時労働経済学を学ばなければ駄目だと言われていた時代でもあり、大河内一男、氏原正治郎、隅谷三喜男、戸塚秀夫等の著作を読んだ(後日談になるが、日本社会事業大学の専任講師になった際、日本社会政策学会に入会しろと言われた。日本社会政策学会は日本社会福祉学会の親学会だから入会しろと言われたが、私は入らなかった。また、当時は、大河内一男の昭和13年論文「我國に於ける社会事業の現在及び将来―社会事業と社会政策の関係を中心としてー」(雑誌『社会事業』第22巻5号、昭和13年8月)は社会福祉論を学ぶ者の必読文献と言われ読んだが、なぜ社会事業が労働経済学の社会政策の"補充・代替"の位置にあるのか疑問に思い、納得しなかった。仲村優一先生の『社会福祉概論』は"補充・代替説に立脚している)。

 そのような経緯もあり、社会福祉論を憲法第25条を法源とする社会的生存権の位置づけだけでいいのかと疑問を持つようになるし、当時の社会福祉学界の通説である「狭義の社会福祉と広義の社会福祉」という言い方には幻滅を感じることになる。

 そんな折、1967年に『経済学全集22「福祉国家論」』(小谷義次編著)の別冊に収録された江口英一先生の論文「日本における社会保障の課題」を読み、これこそが「社会教育と社会福祉の学際研究」をする際の道しるべだと思った。

 その当時は、何故か別冊という方式が出版界で流行っていた。少年雑誌などの付録付き雑誌と同じ感覚だったのか分からないが、紙の装丁箱に入っている『福祉国家論』に江口論文は柴山幸治著「福祉国家と経済計画」という論文とともに別冊として入っていた。筆者にとっては、本体の本よりも別冊の江口論文の方が面白かった。

 この江口論文に示唆されて、対人援助としての社会福祉は国家レベルの政策ではなく、市町村自治体レベルで整備され、システム化されるべきだとの確信を得た。

筆者の地域福祉研究は、江口英一学説と岡村重夫学説を乗り越えようとするところから始まった。

② 1970年は筆者の人生の大きな節目

 1970年は筆者にとって、「人生の大きな節目」であった。

 「第1の節目」は、1970年3月に東京大学大学院修士課程を修了したことである。

「東大紛争」等があり、必ずしも全力で取り組めたとはいえないまでも、東大の中央図書館の地下に個室閲覧室を借りられて、資料を必要なだけ借りて読み、書けたことは自分にとって大きな財産になった(後日談になるが、日本社会事業大学の清瀬移転に伴い、図書館棟を建設できたので、そこに教員や大学院生が研究できるように個室の閲覧室を設けたが、利用者は少なく、後日廃止された。日本社会事業大学大学院の院生の研究能力、研究姿勢に正直落胆した)。

 修士論文の審査は、宮原誠一教授、碓井正久教授、裏田武夫教授(図書館学)、藤岡貞彦助手などの教員の列席の他、多数の院生にも公開される修士論文公開審査会であった。

 修士論文のテーマは、拙著『地域福祉の展開と福祉教育』、『地域福祉とは何か』にも収録させて頂いたが、「戦前社会事業における『教育』の位置」である。

その審査結果は、宮原誠一先生から良い評価を頂いたが、宮原先生から今度は「社会教育における社会事業の位置を」を研究する必要があるのではないかとの指摘を受けた。宮原誠一先生は1970年3月で退官されたので、最後の指導を受けた院生だった。修士課程を修了し、かつ博士課程への進学も認められた。博士課程での指導教授は碓井正久先生にかわった。

 1970年の「第2の節目」は、1970年4月26日に日本社会事業大学の同級生の渡部貴恵と結婚したことである。
渡部貴恵とは日本社会事業大学1年時の夏休みに一緒に神奈川県立中里学園のボランティア活動を行った。3年次の社会調査実習では、同じ小川利夫班(助手 高澤武司先生、後に岩手県立大学ソーシャルワーク学部学部長)で「中卒青年の集団就職調査」を行い、かつ3年次からは「教育科学研究会」で一緒に雑誌「教育」の勝田守一論文を輪読した中であった。

 日本社会事業大学卒業時には、将来一緒になろうと結婚の約束はしたものの、渡部貴恵は東京都職員、私は研究生で将来が見通せない状況だったので、東大大学院の修士課程を修了したら結婚しようということで、1970年4月26日に結婚式を挙げた。新婚旅行の費用は全て渡部貴恵が負担してくれた。結婚のお祝いに夫婦茶碗を2組頂いた(一組は煎茶用の九谷焼で、仲村優一先生から頂いた。もう一組は栃木の方で益子焼のほうじ茶を飲む夫婦茶碗である。その二組の夫婦茶碗は壊れることなく、結婚後55年の現在も毎日使われている)。

 1970年の「第3の節目」は、女子栄養大学の助手に採用されたことであった。 女子栄養大学で教育学を教えていた柴田義松先生から小川利夫先生に話があり、私が女子栄養大学の社会福祉論を担当する助手として採用された。 柴田義松先生は、教育科学研究会のメンバーで斎藤喜博先生と教授学部会を作って活躍していた先生で、旧ソ連のレフ・ヴィゴツキーの『思考と言語』の翻訳者でもあった(柴田義松先生は1985年に東大教育学部助教授に転出、のちに教授。日本教育方法学会会長。柴田義松先生の影響もあって、スイスの心理学者・ピアジェの『言語と思考』を齧ったりした)。

 女子栄養大学の助手の話があった際、私は東大大学院の博士課程に在籍したまま、助手になれるなら受諾しますと生意気にも条件を出し、それが認められて大学院との2重籍で就職した。

 女子栄養大学の助手の待遇は、一般事務職員と同じように朝から夕方まで勤務する形態で、朝出勤すると出勤簿に押印しなければならなかった。授業を担当する助手なのに、一般教養科目を担当する教室(教授3人)の掃除、お茶くみ、雑務を命じられた。他の実験系教室の助手は助手とは名前が付いているものの、副手か事務職員のような扱いであった。

 東大紛争を見てきたものにとって、これは看過できないので、まず助手会を組織化した。心ある助手たちと話をし、助手会を作り、助手の地位向上のために助手会の機関誌『あしすたんと』を1971年に創刊した。創刊号の巻頭言を筆者は書いており、そこで助手会結成の目的を"女子栄養大学は「食」にかかわる研究をする単科大学であり、その栄養大学における研究等はどうあるべきかを志向しつつ、助手の研究体制を向上させるところにある"と述べている。

助手会の滑動もあって、①出勤体制を教授たちと同じフレックスタイム制にできた、②主任助手制度を創設してもらい、待遇改善を図った、③教授会に助手会の代表を出席させることなどの改善が図れた。

このような活動を助手会会長として主導したので、講座制の強い実験系の教授に睨まれ、大学院博士課程と女子栄養大学の2重籍は認めないといわれ、3年半で女子栄養大学助手を退職した。いまとなっては、給料をもらえる助手を継続し、博士課程を退学する道を選べばよかったと後悔しているが、その当時は研究者の道を選んだ以上博士課程を全うしたいと考えていた。

助手の籍を失ったので、1973年1月から日本社会事業大学の専任講師に採用される期間、東京都職員であった妻の扶養家族になった。当時、男が妻の扶養家族になるという発想がなく、随分もめたそうだが、結果として認めてもらった。収入の面は、三鷹市勤労青年学級の講師をしていたので、それなりにあったが、健康保険面で扶養家族にならざるを得なかった。

③ 稲城市社会教育委員と「社会教育推進全国協議会」、「社会教育学会」の活動

 1970年4月、我々夫婦は東京都南多摩郡稲城町に移住した。稲城町は、1971年に3万人特例市として稲城市に昇格した。稲城市に昇格することもあってか、稲城市教育委員会に社会教育主事が設置されることになった。東京都教育庁からの依頼もあって、小川利夫先生は日本社会事業大学で筆者の2年後輩の川廷宗之さん(後の大妻女子大学教授)を紹介した。当時、日本社会事業大学には社会教育主事養成課程があった。

 川廷さんとは、顔見知りだったこともあり、かつ筆者が東大大学院で社会教育を専門に学んだ人ということで、弱冠26歳の若さなのにいろいろな機会を与えて頂いた。1969年に設置していた稲城市社会教育委員の会議の委員に筆者を推薦してくれた。

早速、稲城市社会教育の礎になる稲城市社会教育委員の会議で、稲城の社会教育の将来像を論議し、1972年に「公民館及び図書館の運営について」と題する答申を出し、①公民館7館構想、②社会教育主事等の専門職の採用、③公民館運営審議会、図書館運営協議会等の住民参加の手立ての保障、④後述する「公民館3階建て構想」の実現を提言する。

 稲城市においては、それまで公民館や図書館はなかったが、婦人会や青少年委員会による活動が活発で、東京都内でも一目置かれる活動をしていた。稲城に戦前移住してきて、いろいろ生活改善などの活動をしていた当時の社会教育委員の会議の議長の勝山道子さんや稲城市で最初の女性議員になる富永ヨシ子さん等、外部からの移住者がある意味婦人会の活動を活性化させていた。

一方、青少年委員活動としては、長坂泰寛さんや川島実さん等の地主層が頑張ってくれいた。

社会教育委員の会議は、移住組の人々と地元の土着民である、地主層の白井威さん(後の東京都議会議長、東京都社会福祉審議会でも筆者と同席)等が混在して、"新しい稲城のまちづくり"をしようと活気に満ちた論議をしていた。この時期は、稲城市の公民館の整備計画等これからの稲城市の社会教育のあり方、プランを立てるという楽しい時期であった。

社会教育主事も川廷宗之さん以降、毎年のように採用され、浜住治郎さん(現、被団協事務局長)、向山千代さん、霧生久夫(?)さん、霜島義和さんなどが採用され、研究会を作り、稲城の社会教育の楽しい夢を語った。

稲城村は明治22年(当時人口3600人、現在9万5千人)に7つの村が合併して発足するが、社会教育委員の会議はその合併した旧村(稲城市の大字単位)毎に一つの公民館を立てるという7館構想という画期的な答申を社会教育委員の会議はした。その構想は現在実現している。新しく大規模開発された地域にも必ずコミュニティセンターか文化センターが設置された。

1973年に最初に建てられた公民館は、1960年代に東京都三多摩で論議された「公民館3階建て論」に基づき、1階はロビー及び軽食が摂れるコーナーとホール、2階は社会教育団体事務室(共同使用の印刷機器やロッカーなどを整備)及び集会室、3階は図書館、4階は学習・研修室といった、当時の最先端の考え方を反映したものになった。この公民館には市役所の職員が常駐する保育室を設置した(1947年に制定された児童福祉法の保育所の目的の一つに、女性の社会参加と地位向上のために保育所が必要と考えられていたことを援用)。

筆者は、新しくできた中央公民館において、1974年に「住みよい稲城を創る会」(代表大橋謙策)主催の「稲城の福祉を考える集い」を開催した。公民館に約400名近くが集まり、「父子家庭の子育て」、「学校拒否児の課題」、「嫁の立場での舅、姑の介護」の体験発表を聞いて頂き、その後分科会に分かれてグループワークが行われた。体験発表者を探すのには苦労したが、大成功を収めた。「学校拒否児」の親御さんが15名も来られていて、急遽その分科会を作らざるを得なかったことがとても印象的であった。

この頃、筆者は江口英一先生が指摘されたように、住民の暮らしを守るためには市町村の社会福祉サービスを充実させることが重要だと考え、稲城市の社会福祉問題にも関心を寄せ、保育所づくり運動や就学援助制度の改善を図っていた。就学援助制度は、文部省(当時)基準でいくと生活保護基準の1.5倍であったが、筆者は1.8倍まで引き上げるべきだと陳情し、結果的に1.6倍になった(当時、長崎県香焼町が1.8倍で、筆者は長崎まで視察に行った)。

保育所づくりでは、公民館保育室は設立できたが、保育所の増設はなかなか進まなかった。そうこうするうち、我が家に子どもが産まれ、保育所入所を申請したが、市役所は"保育に欠けることは認めるが、保育所に空きがない"と申請却下の措置決定通知書を寄越した。ご丁寧に、その決定通知書には、"この決定に不服がある場合には、児童福祉法、行政不服審査法に基づき、不服申し立てができます"と書いてあった。

筆者は、不服申立制度があることは当然知っており、福祉事務所に電話をして、あれだけ保育所増設の必要性を言ってきたのに、"保育所に空きがない"から措置できないというのなら不服申し立て制度を活用して不服申し立てをします。1週間後に不服申し立て書を提出しますと福祉事務所に通告をした。1週間後、福祉事務所から電話があり、"保育所に空きがでましたので、入所してください"ということで、"不服申し立て騒ぎ"は終わった。

筆者は、その後も保育所増設運動や保育料の適正化運動を行い、稲城市保育問題審議会や稲城市社会福祉委員会等を行政に設置させ、住民参加の社会福祉行政のあり方を追求してきた。

稲城市では1975年4月に統一地方選挙があり、筆者が代表を務めていた「住みよい稲城を創る会」からも候補者(須恵淳さん。稲城市市議会議員、コマクサ幼稚園園長)がでて、現職の森直兄候補と争ったが、敗退する。そのような敵対行為をした筆者を森直兄市長は、干すことなく、社会教育委員も保育問題審議会の会長も続投させてくれた。のちには、「稲城市地方自治功労賞」まで授与された。

敗れた須恵淳さんには、コマクサ幼稚園の副園長として手伝えと言われ、それから10年間、非常勤で副園長を務めることになる。この時は、教育科学研究会で学んだことが大いに生かされた。

 1970年前後の筆者の滑動は、「社会教育と社会福祉の学際研究」とはいうものの、圧倒的に社会教育分野での活動が中心であった。

 東大の宮原研究室の研究生にも関わらず、「社会教育推進全国協議会」(国土社の「月刊社会教育」の読者が中心に、1963年に設立され、民主的社会教育推進の全国セミナーを毎年8月各地持ち回りで行っていた。その活動に筆者は参加していた)や修士課程に入学した際には、小川利夫先生の推薦を頂き、日本社会教育学会の会員になった。

 また、筆者が日本社会事業大学の卒業生で、それなりに社会福祉分野が分る人として認識されていたのか、1960年代末からの東京都立三多摩社会教育会館での障害者の青年学級の調査研究や1970年に東京都教育庁が始めた「市民の自主企画による市民講座」のあり方プロジェクトの「社会福祉コース」の講師を命じられた。

立教大学の室俊司先生(東大宮原研究室出身)ともども、都内各地から選ばれた、各地の婦人(当時の使用語)の地域活動のリーダーたちと「自主企画による市民講座」のあり方を論議した。「社会福祉コース」には、練馬区から世良田さん、杉並区から杉山さん、文京区から若林さん、品川区から山口さん、板橋区から手嶋さん、世田谷区から植村さん等、各地域の若手の女性リーダーたちが地域づくりに燃えて参加してくれていた。それらの人々とは、東京都教育庁の事業が終わった後も、月1回女子栄養大学の松柏軒で食事を取りながら勉強会を続けた。

 そんな経緯も作用したのか、1971年の第8回社会教育全国集会では「権利としての社会教育とはなにか」のテーマで基調講演を任された。このテーマは、日本社会事業大学の小川政亮先生の著作『権利としての社会保障』をもじったものであった。その縁で、1972年に、雑誌『都政』に「権利としての社会教育と社会教育行政」という論文が掲載された。

 1969年には、日本社会教育学会紀要第5号に「社会教育主事の「専門職化」に関する一考察」を書いたし、1971年には『日本の社会教育 第15集 社会教育法の成立と展開』(日本社会教育学会編、東洋館)に「社会教育法制と社会事業―地域福祉を巡る隣保館と公民館」という論文が採択され、収録されている。

④ 「社会教育と社会福祉の学際研究」の萌芽と『月刊福祉』への登場

 1970年に大学院修士課程を修了して、研究者への道が見通せるようになったので、本来研究テーマにしていた「社会教育と社会福祉の学際研究」を隣保館や地域福祉との関りで深めようと考えた。

 そんな折、日本社会事業大学の1年先輩の和田敏明さん(筆者は、和田さんを「ミスター社協」と呼んでいる。全社協の地域福祉部を主に歩き、最後は事務局長、その後ルーテル学院大学教授など。『和田敏明 地域福祉実践・研究のライフヒストリー・社会福祉協議会の変遷とこれからへの期待及び提言』(香川県社会福祉協議会、2024年3月刊)参照)が全国社会福祉協議会の地域福祉部に勤務していたことや、東大教育学部社会教育学科出身の根本嘉昭さん(後の厚生省専門官、立正大学教授)が全社協に就職したということもあり、全社協地域福祉部に出入りするようになる。

 丁度その頃は、1969年に「コミュニティー生活の場における人間性の回復」(国民生活審議会報告)がだされ、文部省も厚生省も含めて各省庁挙げてコミュニティ政策に取り組んでいた時代である。

同じように、全社協も、1971年5月に「地域福祉センター研究委員会報告案」を出す。また、1971年6月には「福祉事務所の将来はいかにあるべきかー昭和60年を目標とする福祉センター構想」(社会福祉事業法改正研究作業委員会報告)がだされ、戦前のセツルメントや隣保館の"再生"が謳われたことに感動し、自分が行おうとしている「社会教育と社会福祉の学際研究」はまさに、この地域福祉センター構想を拠点に展開できるのではないかと喜んだ。

1971年7月に行われた全社協、神奈川県隣保事業協会主催の「全国地域福祉センター研究協議会」に胸躍らせて参加した。しかしながら、論議の中心は、その当時の隣保館の経営、運営をどうするかということに終始していて、筆者はいたたまれず、隣保館の今後のあり方とその実現のあり方を論議する場ではないのかと質問した。横須賀キリスト教会館の阿部志郎先生が、後日"大橋君はあの時発言したね"と覚えていてくださった。

当時の全社協職員の中には、日本社会事業大学卒業生が沢山いた。学部だけでなく、研究科、専修科、短大の卒業生が多くいた。それは、戦後初期に、戦前の海軍博物館の跡地利用で、日本社会事業大学のみならず全社協等の社会福祉団体が一緒に事務所を構えていたことも影響していたのかもしれない。

多分、そんなことも影響しているのだと思うが、全社協職員には「社会教育と社会福祉の学際研究」をしている筆者をある意味使い勝手がよかったのかもしれない。1973年11月には、『月刊福祉』に「新しい貧困と住民の教育・学習活動」を書かせてもらっている。また、1977年1月号の『月刊福祉』に「社会福祉のための社会教育―その三つの枠組み・試論―」、1977年10月号の『月刊福祉』に「地域福祉の主体形成と社会教育」という論文を書いている。

そのような縁があったからか、全社協出版部の矢口雄三さん(日本社会事業大学の同窓生)の薦めもあって、1978年2月には全社協出版部から『社会教育と地域福祉』を編著として刊行出来た。

この編著では、実践編では1960年代から取り組んできた「障害者の社会教育」(西宮市の肢体不自由者の生活学習と町田市の大石洋子(東大教育学部出身の社会教育主事)さんの心身障害者の青年学級の実践を取り上げた)や体系的高齢者の生涯学習を推進していた兵庫県の「いなみ野学園」等を取り上げた。

また、地域福祉分野の実践では、山形県社会福祉協議会が推進していた地域保健活動である「かあちゃんの病気をなくす運動」を渡部剛士先生に、ノーマライゼーション思想に基づくまちづくりとして、田代国次郎先生(当時東北福祉大学教授)に「福祉モデル都市」第1号になった「仙台・福祉のまちづくり」について書いて頂いた。

理論編としては、「教育と福祉」の理念・構造や「教育と福祉」の歴史的系譜等筆者が書き留めてきた論文を収録させて頂いた。

1972年から日本社会事業大学の非常勤講師を務めていたこともあり、日本社会事業大学の小川政亮先生には『扶助と福祉』(至誠堂、1973年刊)に「『世帯保護』の原則と「教育を受ける権利」、「入院助産制度―子どもの私有性と社会性」、「母子家庭と世帯の自立助長―母子福祉資金問題」を書かせて頂いた。

また、鷲谷善教先生には、1973年刊の『社会福祉労働論』(鳩の森書房)で「児童指導員解雇事件に内在する課題」という論文を書かせて頂いた。この論文は、児童養護施設に根強くあった、模擬家庭観に基づく実践と"滅私奉公的職員論"の在り方を批判し、科学的支援論の必要性を問うたものであった。

⑤ 1974年4月に母校の日本社会事業大学の専任講師に就任

 小川利夫先生が「教育制度検討委員会」の事務局長に就任されるなど忙しくなり、かつ名古屋大学への転出も決まっていたので、日本社会事業大学には、1972年度から非常勤講師として勤めていた。

この当時は、聖心女子大学(橋口菊先生、東大教育学部社会教育専攻)、千葉大学(福尾武彦先生・社会教育学、中島紀恵子先生・看護学)、成蹊大学で社会福祉論を教えると同時に、和光大学で社会教育を教えた。和光大学では、講義の他に、非常勤にも関わらずゼミナールも担当し、12年間教えた。

 1974年4月、母校の日本社会事業大学の専任講師に就職できた。実は、この時、東京学芸大学の小林文人先生(九州大学教育学部出身、社会教育推進全国協議会のメンバー)から、社会教育担当の講師で来ないかと言われていたが、小林先生には、申し訳ないが、もし日本社会事業大学で採用されなかったら東京学芸大学にお世話になりますといって、正式決定を待って頂いた。結果として、東京学芸大学をお断りして、母校の日本社会事業大学に専任講師として就職した。その選択には、母校というだけでなく、「社会教育と社会福祉の学際研究」をするのには、日本社会事業大学の方が研究環境的にいいと考えたからである。

 1974年4月、正式に日本社会事業大学専任講師として就職できた。仲村優一先生から辞令を交付されたが、その折、仲村先生に、"先生、この給料の額は、準保護世帯の基準ではありませんか。何とかならないのですか"と聞いたら、この基準は国家公務員の給料表に準じているのでどうにもならない"といわれ、給与の低さを実感した。

 就職に当たって、仲村優一先生と五味百合子先生(戦前の日本女子大学社会事業学科卒業、戦前の社会事業講習会の修了者、日本社会事業大学では研究生活をせず、学生課長として一貫して学生指導(学生を守る)に従事した)から言われたことは、"日本社会事業大学の教員は、研究者として日本の社会福祉界に貢献することは大切であるが、それ以上に学生の教育・指導をしっかりして欲しい。日本の社会福祉界を向上させるために、学生をしっかり育てて、卒業させることを重んじてほしい"と説かれた。

 この考え方を筆者は守り通したと自負している。2年次、3年次のゼミナールで、学生の興味・関心に即して、いくつもの「小ゼミ」を作り、「小ゼミ」のテーマを共同研究させ、親ゼミで報告させるとともに、「小ゼミ」毎にテーマに即したゼミ論文集を書かせ、それを持って"温泉付き、お酒付き、スキー付きのゼミ合宿"を毎年行ってきた。

 後日談になるが、1989年には、当時の平田富太郎学長の提案を受けて、日本社会事業大学「大橋ゼミ」開設15周年を記念して、第1回の「大橋ゼミ」卒業生の「ホームカミングデー」を開催した。

それ以降、5年おきに行ってきた。教員としての筆者も5年間の研究業績を印刷し、参加者に配布するし、卒業生とともに学ぶ機会を作ってきた。

2023年10月に第8回目の「ホームカミングデー」を開催し、「ホームカミングデー」の行事は終了させて頂いた。筆者が80歳になったということと、筆者が社会福祉界の実践、研究に目配りをして情報を集め、それに関して論文を書き、その5年間の論文を「ホームカミングー」で配布することが辛くなってきたからである(筆者の情報発信は、その後「老爺心お節介情報」として、現在75号まで発信している)。

この「ホームカミングデー」という考え方は、筆者が日本社会事業大学の清瀬移転の際に打ち出した、今後の大学の在り方の一つとして「卒業生のリカレント教育」の場になるべきだという考え方とマッチしていた。

                   (2025年10月1日記)

註1 「我が師を語る(1)仲村優一先生とソーシャルワーク」   (『ソーシャルワーク研究』115号・2003年秋号所収、相川書房)

はじめに ―仲村先生と著者とソーシャルワークの関係

仲村優一先生の「人となり」を書くことを求められたものの,自分にはその資格があるとは思えない.
確かに,筆者は日本社会事業大学・社会福祉学部の卒業生であり,かつその後教員として母校に戻り,教育•研究に従事しただけに,身近に仲村先生に接しさせて頂いてきた期間は長い.また,その間,折に触れ,いろいろご教示頂いたことが沢山あるので,他の人に比較すれば,先生の「人となり」は知っているつもりではある.しかしながら,筆者は学部時代,仲村先生の「ケースワーク論」を履修途中で"リタイア"してしまっていたし,当時の3分類法に基づく社会福祉方法論ではどちらかといえば,コミュニティオーガニゼーションに関心を寄せ,地域福祉に自分の進路を見いだした者としては,仲村先生が行ってきた研究,教育,政策提言,実残の細織化とはやや距離があることも事実である.果たして筆者が先生の「人となり」を述べる資格があるのか躊躇される.
とはいうものの,筆者自身,日本の社会福祉は1990年以降,社会福祉実践の時代に入り,そこでは社会福祉制度・政策に関する研究もさることながら,ますます社会福祉実践の重要性が認識され,ソーシャルワークの教育・研究とその実践こそが今後大きな課題になると考えている.そのような潮流のなかで,筆者は社会福祉制度・政策研究と社会福祉援助・方法論研究とが,メゾレベルの市町村において統合化されることが必要であり,その方向としてコミュニティソーシャルワークこそが研究的にも,実践的にも,制度・システム的にも問われるべきだと考えている.その筆者の,今日の研究関心,研究課題から言えば,仲村先生が戦後50年余にわたり,一貫してソーシャルワークの教育・研究と実践に情熱を捧げられてきたことは驚異であり,その源泉を改めて確認しておくことが必要だと思わざるを得ない.しかも,1994年以降,日本学術会議の社会福祉・社会保障研究連絡委員会の仕事や第17回アジア•太平洋社会福祉教育•専門職会議(2008年7月開催予定がSARSの影響で中止になる)の組織委員会の仕事を通じて,改めて先生の讐咳に接するなかで,筆者なりに先生のソーシャルワークに対する情熱と日本におけるソーシャルワーク教育•研究への思いの深さとその素晴らしさを知る機会を得てきただけに,今回この企画を引き受けることにした次第である.
ところで,仲村先生の研究業績は,昨年から今年にかけて『仲村優一著作集』(旬報社)が刊行され,この度全8巻が完成した.また,その各巻の解説を先生自身が書かれているので,仲村先生が関心を持たれた研究領域,課題の背景やその論文の意味するところとその位置については,それを読んで頂くのが最適である.本稿は,そのことと重複しない形で,著作集の「行間」とそれら論文の背景を意識しながら,先生の「人となり」を素描してみたい.
なお,先生への詳しいインタビューを筆者が別途行っており,その印刷物が2003年11月22日に行われた「仲村優一著作集出版記念と日本のソーシャルワークの発展を考える会」で配布されたので,それを参考にして頂きたい.そのインタビューは4時間にも及んだものであり,7つの柱でお聞きしているが,紙幅の関係で3つの問題に限定している.本稿でも,同じように5つの課題について絞って,エッセイ風に述べることとしたい.

経歴にみる幅の広さと凄さ ----仲村先生の業績の6つの分野

日本社会福祉学会か創設され,50周年を迎えようとしているなかで,戦後の社会福祉教育•研究を牽引されてきた多くの先生方がリタイヤされ,世代交代が進むなかで,伸村先生は一貫して,50年以上に渡り,日本の社会福祉教育•研究の中枢で頑張ってこられた.そのエネルギーと尽きない情熱にはただ感嘆するばかりである.しかも,社会福祉教育・研究の分野において,それらを推進する全ての組織の責任者の役割を果たしたのは伸村先生しかいないのではないであろうか,学術研究組織である日本社会福祉学会の会長ならびに日本学術会議の会員,社会福祉教育機関ならびにその全国組織である日本社会事業大学の学長と日本社会事業学校連盟の会長,そして社会福祉専門職団体としての日本ソーシャルワーカー協会の会長と,戦後日本の社会福祉教育,研究,実践を語る場合には欠かせない役職に全て就かれた先生は他にはいないわけで,これだけでも大
変なことである.
しかも,これ以外に,中央社会福祉審議会委員,東京都社会福祉審議会委員(後に委員長)を歴任されるなど,国や地方自治体の社会福祉政策立案にも関わってこられたし,また国際社会福祉協議会に深く関わり,アジァ太平洋地区担当の副会長にも就任された.このような経歴をみるだけで,戦後日木のソーシャルワークを考える上で,仲村先生が果たされた役割の大きさを垣間見ることができる.
このような経歴を踏まえて,仲村先生の業績を分野毎に分類してみると,①ソーシャルワークの教育と研究,②社会福祉における国際交流と国際社会福祉協議会,③日本社会事業学校連盟と社会福祉教育,④日本社会事業大学と社会福祉教育,③日本社会福祉学会と日本学術会議における社会福祉研究,③社会福祉審議会委員としての社会福祉政策提言の6っに分頼することができる.

活動のエネルギーの源泉と思想形成に影響を与えたキリスト教

このように多様な分野で仕事をされていながら,仲村先生の偉大さの一つは,一貫してソーシャルワークの教育,研究,実践に焦点化されてこられた点であり,その枯渇しないエネルギJの源泉がどこにあるかが不思議である.
仲村先生は東京大学経済学部に在学中に,かの有名な学徒出陣の一員として,繰上げ合格して出征することになる.その軍隊での軍事活動の一環として,原爆投下直後の広島に遭遇することになり,その地で敗戦を迎えることになる.筆者は,その経験が仲村先生をして,その後の活動のエネルギーの源泉と見なしていたが,それ以上に大きな思想的,宗教的背景があった.
先生は,厳格な宗教活動を展開していた,ホーリネス派というキリスト教宗派の一員であり,敬農なクリスチャンであった両親の下で育てられ,大きな人格上の影響を受けられた.しかしながら,より以上に思想的に影響を受けたのが、旧制第一高校時代に授業を受けた,無教会派の大塚久雄先生であり,東大時代の矢内原忠雄先生たちであったという.このような幼少期の人格形成と青年期の思想形成が先生のバックボーンであり,M・ヴェーバーが述べるところの客観の世界に主観をおりこむということをすべきでないという禁欲と一見「西洋合理主義者」とも思える人柄を形成したともいえる.そのような思想の影響が,ソーシャルワーク教育,研究,実践へと収斂していくのは,復員後,改めてどう生きるかを模索するなかで,大河内論文に出会い,中央社会事業協会と出会ったことからであり,それが日本社会事業学校の入学へとつながる.しかしながら,社会事業学校での学習は必ずしも順調でなく,一度は退学を考えたようであるが,それを思い留めさせたのは,今は亡き,戦前の社会事業主事の養成課程を履修した今岡健一郎先生との出会いであったという.

ソーシャルワーク研究上の悩み

戦後一貫して,ソーシャルワーク研究をしてこられた先生であり,アメリカのソーシャルワークの研究•紹介をされてきた先生ではあるが,意外にも次のようなことを述べている.
"実践のところでは,ケースワークをはじめ用語はアメリカのものを入れてきている.......そこからたくさんのものが日本に紹介されて今日に及んでいます.紹介されたものを,逆に日本の現場に即してフィードパックし,日本の現場の実ᄀに照らして組み立て直していくという作業をしてこなかったように思うのです.これは学者の責任が非常に大きいと思うのですが,向こうからのものの翻訳紹介の域を出ない"(『社会福祉研究』第80号・p.160)
日本におけるソーシャルワーク研究に関して,以上のように述べた上で,しかも,日本は社会福祉方法論はアメリカから,社会福祉制度はイギリスから主に学んでいて,その両者の整合性については十分論議してこなかったと指摘されている.また,仲村先生は,ソーシャルワークについて,"社会問題的視点"と"社会関係的視点"とを統合的にとらえて展開するという考え方を提示している.その考え方こそが,仲村先生の理論の骨格をなすものであり,特色ともいえるものである.この点はとても重要で,アメリカのソーシャルワークがどのような機関,システムで展開されているのかを踏まえた上で,そのあり方を考え,日本のシステムにどう適合できるかを考えないとならないにもかかわらず,その面が軽視されてきた.仲村先生はアメリカのハリー・スペクト博士を何回か日本に招待している.ハリー・スペクト博士は1970年代にアメリカのソーシャルワーク方法論はイギリスのコミュニティケアに学び,統合化するべきだと述べた点とほほ同じ考え方を込めたソーシャルワークあり方を考え,ソーシャルワーカーの資格とそれを展開できるシステムとの関係性ということで,1970年前後の「社会福祉士法試案」や「福祉事務所の将来はいかにあるべきか----福祉センター構想」等の策定に関与され,それこそが仲村ソーシャルワーク論の具体化の一つとみなすことができる.公的扶助を巡る「岸・仲村論争」と言えるものも,この1970年前後のソーシャルワークを展開できるシステムとの関わりで再検討すると新たな地平が見えてくる.

社会福祉の補充性と大河内理論

一般的に仲村優一社会福祉論は「社会福祉の補充性」にあると言われる.仲村優一先生は,その補充性の考え方を大河内理論から学び,展開させたという.仲村優一先生が復員後,日本社会事業学校に入学する契機の一つが大河内先生の昭和13年の「我が国における社会事業の現状及将来」と題する論文であるといわれるが,仲村社会福祉論自体が大河内理論に依拠し,それを社会福祉の分野,とりわけソーシャルワークに援用し,克服しようと考えた.仲村社会福祉論の特色は,社会福祉の補充性を①相互補充性(並立),②補足,③代替の三つに整理し,代替から補足,相互補完へと社会福祉は歴史的に発震をしていると位置づけた.しかも,それをアメリカのソーシャルワーク実践の大きな土台であるとも言える,医療分野のソーシャルワークをヒントに構成を考えている.実は,そこに仲村理論の特色があるわけで,"補充性"の意味を社会福祉制度をどう考えるかという点で考えるだけではなく,制度と対人援助とを結びつける重要なシステムとして考えようとしたこと,あるいは対人援助というソーシャルワークを展開する上で活用できる社会資源としての社会福祉制度という位置づけで,ソーシャルワークのシステムを考えようとしたところに仲村理論の特色があると考えたい.

国際社会福祉会議と日本社会事業学校連盟の創立

仲村先生の国際会議デビューは,実質的には1956年にドイツのミュンヘンで行われる国際社会事業会議(当時の名称)に参加したことであった.その目的は,1958年に日本で行われる次回の国際会議の準備要員としての視察であった.その下地としては,厚生省の委託を受けている日本社会事業短期大学の教員であった先生が国連フェローの一員に選ばれ,アメリカに留学したことがあった.1956年,飛行機で28時問かけて,高田浩運氏や大崎康氏,松島正義先生等と一緒に行かれた.その最初の国際会議で,ケンダル先生等とお会いすることが,アメリカ留学に輪をかけて,仲村先生を国際通,ソーシャルワーク研究者としての磨きをかけることになる.当時,日本では1954年に日本社会福祉学会が創立され,1955年には国際会議を見越して日本社会事業学校連盟が創立される.その当時の国際会議は国際社会福祉会議,国際社会事業学校連盟会議,国際ソーシャルワーカー連盟会議の三つが同時並行的に開催されているので,社会事業学校連盟やソーシャルワーカー連盟の会議と無関係ではないが,仲村先生はどちらかと言えば,当時においては国際社会福祉会議の要員としての意味合いが強かったという.日本ソーシャルワーカー協会が創立されたのは,1958年の東京会議で関係者から,とりわけ国際ソーシャルワーカー連盟の初代会長であるジネーサン会長から強く働きかけられたこともあり,1960年に竹内愛二先生を初代会長に創立された.
2006年に国際社会事業学校連盟と国際ソーシャルワーカー連盟との合同会議がドイッのミュンヘンで行われるが,仲村優一先生は多分,50年前の参加者のなかで存命中の唯一の参加者ではないかと思われるが,是非とも先生にご壮健で,ミュンヘン大会に参加して頂きたいものである.
仲村優一先生の,実質的な日本社会事業学校連盟への参加と足跡は,1970年に日本社会事業大学の学監として,日本社会事業学校連盟の会長職を引き受けられ,社会福祉教育セミナーを開催したことであろう.それ以前にも,ケースワーク論等のカリキュラム検討等にも参加をされているが,重要な役職およびその業務としては,会長として社会福祉教育セミナーを開催したことと,その後日本社会事業学校連盟の国際委員会の委員長として,小島蓉子先生に引き継ぐまで,対外活動を担われたことであろう.

おわりに

仲村先生の膨大な業績を基に,その「人となり」を業績の背景やその行間を読んで論述することは至難なことである.本稿は,ソーシャルワーク研究や実践をしている人々に,仲村優ーソーシャルワーク論がどのように形成され,どのように社会的に貢献してきたかを読みやすいように,エッセイ風にまとめてみた.もとより,これで仲村先生の全てを語れるわけではないが,普通知られていない側面の一端が解読できれば幸いである.

註2 『故仲村優一先生偲び草―研究業績・社会活動の功績』刊行にあたって(2016年2月14日)

『故仲村優一先生偲び草一研究業績・社会活動の功績一』刊行にあたって

戦後社会福祉学界を牽引されてきた故仲村優一先生が、去る2015年9月28日にᄀ
去されました。享年93歳でした。
 故仲村優一先生は、日本社会福祉学会会長、日本社会福祉教育学校連盟会長、日本学術会議会員、日本社会事業大学学長をはじめ、国の中央社会福祉審議会の委員、東京都社会福祉審議会委員長等、文字通り戦後の社会福祉学研究、社会福祉教育、社会
福祉政策を長年に亘り牽引されると同時に、それらの日本的定着を図るために日本ソーシャルワーカー協会会長や公的扶助研究会運営委員長としてソーシャルワークの実践にも深く関われた先生でした。
また、故仲村優一先生は第2次世界大戦後の1956年に再開されたドイツのミュンへンで行われた国際社会福祉会議、国際ソーシャルワーカー連盟会議に参加されていますが、50年後に同じミュンヘンで行われた50周年記念の国際会議にも参加し、表彰さ
れるという日本を代表するソーシャルワーカーとして世界的に高い評価を受けてきました。
本冊子は、故仲村優一先生が、日本学術会議会員をされていた2000年5月に設立し、初代代表を2005年3月まで勤められたソーシャルケアサービス従事者研究協議会が『故仲村優一先生を偲び・感謝する集い』を主率するにあたって同協議会がまとめた
ものです。
故仲村優一先生の研究業績、社会活動は多岐に亘っており、そのすべてを紹介することは難しいのですが、幸いにも研究業績については先生自身が編集された『仲村優一社会福祉著作集』(旬報社)が出されています。
また、仲村優一先生のソーシャルワークとの関わりについては、2006年12月10日に仲村優一先生に感謝する集いが行われ、阿部志郎先生、窪田暁子先生、板山賢治先生、児島美都子先生等が参加され「戦後日本60年のソーシャルワーク教育と実践を語る」と題するシンポジュウムが行われました。そのシンポジュウムの内容を収録すると同時に、ソーシャルワークに関する研究、教育、実践について、国際関係も含めて『日本のソーシャルワーク研究・教育・実践の60年』(相川書房、2007年)が刊行されていますので、それらを参照して頂きたいと思います。
本冊子では、それらの内容と重複しないように、かつ故仲村優一先生の多面的な活動を垣間見ることができるように内容を構成しました。と同時に、「故仲村優一先生を偲び、感謝する集い」なので、あまり硬くならずに先生の人柄、研究業績、社会活動の一端をご紹介するということで原稿を依頼し、収録させて頂きました。
なお、本冊子には故仲村優一先生ご自身が執筆された『随想私の実践・研究を振り返って(63)----福祉教育・ソーシャルワークの半世紀を顧みて』(「社会福祉研究」第92号所収、2005年4月、財団法人鉄道弘済会)と先生自身が登壇されている座談会「ソーシャルワーク研究〜21世紀への架け橋----仲村優一と語る一」(『ソーシャルワーク研究』84号所収、1996年1月号、相川書房)及ひ「我か師を語る(1)ーー仲村優一先生とソーシャルワーク」(『ソーシャルワーク研究』115号所収、2003年秋号、相川書房)並びに『仲村優一著作集』の「刊行にあたって」と目次を転載収録させて頂きました。転載を許諾して頂きました公益財団法人鉄道弘高会及び「社会福祉研究」編集部、株式会社和川書房及び「ソーシャルワーク研究」編集部、並ひに株式会社旬報社の関係者の皆様にはこの誌上をお借りして厚く御礼申し上ける次第です。

戦後60年間の長きに亘り、日本のソーシャルワーク研究、教育、実践の発展と定着にご尽力された故仲村優一先生に心より感謝し、先生の思いを継承することを誓い、先生とお別れさせて頂きます。
仲村優一先生、本当に長い間ありかとうこさいました。ご冥福をお祈りいたします。

2016年2月14日
発起人を代表してソーシャルケアサーヒス従事者研究協議会
共同代表大橋謙策

註3 「日本社会事業大学名誉教授五味百合子先生お別れの会弔辞」(2009年4月5日)

日本社会事業大学が敬愛して止まない五味百合子先生、とうとう辛い永久の別れの時を迎えてしまいました。
先生と最後にお会いしたのは、先月3月27日でした。食欲もあり、元気に過ごしていらっしゃること、先生とご一緒にお参りした故郷の光明寺のこと、そこから見える山々の美しいこと等を繰り返しお話しになり、ここ数年恒例のように行っていた4月の花見の約束をしてお別れしたのが最後になってしまいました。4月3日、日本社会事業大学の入学式の日に板山先生から五味先生の突然の計報の話を聞き、一瞬我が耳を疑いました。3月30日に伊藤同窓会副会長といつ先生に花見をかねて、清瀬キャンパスに来て頂こうかと話をし、4月9日のお昼頃がいいねと決め、先生にも連絡し、予定を取って頂いたにもかかわらず、それも叶わないことになってしまいました。本当に残念でなりません。

先生は、日本社会事業大学の淵源である昭和3年から始まる「社会事業研究生制度」の第8期生で、昭和11年(1936年)の修了生でした。戦前、早くから東洋大学、宗教大学と並んで社会事業教育を行っていた日本女子大学校社会事業学部を卒業され、社会事業研究生になりました。社会事業研究生修了後は、母性保護連盟職員、現在の全国社会福祉協議会の前身であり、本学の産みの親とも言うべき中央社会事業協会職員を経て、1948年設立間もない日本社会事業専門学校教授として赴任され、その後は日本社会事業大学一筋に歩まれました。

先生は、全ての卒業生と言っても決して過言でない程、卒業生に慕われ、全ての卒業生の母であり、ソーシャルワーカーでした。才媛の誉れ高く、頭脳明晰な先生でしたから、先生の戦前の母性保護連盟の経歴や戦後の先生の千葉市白幡町という当時の、いわゆるスラム街での実践をみても、先生はフィールドを持ったソーシャルワーク実践に関わる研究者として、また母性保護や婦人更生保護に関して優秀な研究者になる道も開けていたであろうに、先生はそれをなさりませんでした。私は、学生時代からそのことが不満で、生意気にもかつて先生に聞いたことがありました。先生は、笑って、研究は吉田久一先生をはじめ他の先生に任せて、私は学生課長に専念するのといわれました。そのことは、今日のお別れの会に収録させて頂いた、五味先生の退職記念として編集された大学紀要に書かれた平田冨太郎先生のお言葉の中にも書かれています。先生は、自分の名誉や業績を追わず、日本社会事業大学の学生課長として、ソーシャルワーカーとして、これからの日本を担う社会事業従事者の教育と養成に、文字通り一生を捧げて下さいました。だからこそ、私心のない五味先生の前では、腕白な学生もおとなしくなり、素直に先生の意見を受け入れたのだろうと思います。しかも、先生は、自らを省みず、苦学生の生活保障もして下さいました。どれだけの学生が救われたでしょうか。先生は、柔和な笑顔で、いつも学生を受け入れて下さり、学生課長室にいくといつもお茶を入れて下さいました。語り口もゆっくりとして、学生を包み込んで下さいました。それでいて、言われる内容はかなり辛辣で、きつく、時には突き放すような厳しい内容でした。先生は、本当に社大の学生を愛し、学生を育てようとされたスクールソーシャルワーカーだったと思います。

かつて、日本社会事業大学に新しく赴任する教員は最初、必ず学生委員会の委員を勤める慣習がありました。それは、学生の名前を覚え、学生の生活相談や人生相談にのり、学生と時には調査やゼミの合宿で生活を共にすることで日本社会事業大学の教育のあり方を考え、それを通してソーシャルワークとは何かを学ばせようとしたのではないかと思われます。私も、その経験の中で、日本社会事業大学の教育の伝統を教えられたのだと思っています。社大の教育の伝統は、学生を愛し、学生の立場を良く弁え、将来の可能性を信頼して、生涯にわたって、自ら研鑽を積みながら日本の国民が抱える生活問題と社会問題を解決することに情熱を燃やせるソーシャルワーカーを育てることだと思っていますが、その社大の教育の理念、ミッションを五味先生は学生課長職を通して切り開いて下さいました。五味先生は、ある意味で、自らの身を挺して、あるいは自らを犠牲にして日本社会事業大学の教育の伝統を創ろうと、ひいては日本の社会福祉教育、ソーシャルワーク教育のあり方を示そうとしたのかも知れません。今となっては確かめようも有りませんし、たとえ先生に聞いてもホホホとはぐらかされてしまうのが落ちかと思いますが、そのような気がします。このような、五味先生の生き方が、全ての卒業生に慕われた背景ではないでしようか。

五味先生の研究業績や人となりは改めて六月二八日に予定されている「五味百合子先生を偲ぶ会」で詳しく紹介させて頂きますが、先生は社会正義と人権をよりどころとして、人々を抑圧から解放するために、人間関係における問題解決を図り、社会の変革を進めるという国際ソーシャルワーカー連盟の定義に基づくソーシャルワークの実践をされたのだと改めて思います。
五味百合子先生、本当に長い間ご苦労様でした。先生のお気持ちは十分卒業生に根付き、多くの卒業生が社会福祉実践現場で、社会福祉教育の場で展開してくれています。日本社会事業大学も清瀬移転以降、研究大学院や専門職大学院も開設され、今日本の「福祉人材の養成・研修のナショナルセンター」としての地位と役割を自他共に認められるよう、改めて先生が培われた社大の教育の伝統を守り、豊かに発展させようと教職員一同頑張っています。今や、長尾立子理事長が社大は同窓生なくして存在出来ないと言われる程全国各地の同窓生の力が社大には必要です。先生が愛してくれた同窓会・原宿会の皆さんもその目的を理解し、目的達成に向かって応援してくれています。先生ご安心下さい。

先生名残は尽きませんが、これをもちまして、先生から沢山頂きました恩願への日本社会事業大学を代表しての感謝とお礼とさせて頂き、先生との永久のお別れとさせて頂きます。

 先生、安らかにお眠り下さい。

2009年4月5日
日本社会事業大学・学長 大橋謙策

(備考)

 「老爺心お節介情報」は、阪野貢先生のブログ(阪野貢 市民福祉教育研究所で検索)に第1号から収録されていますので、関心のある方は検索してください。

 この「老爺心お節介情報」はご自由にご活用頂いて結構です。

阪野貢先生のブログには、「大橋謙策の福祉教育」というコーナーがあり、その「アーカイブ(1)・著書」の中に、阪野貢先生が編集された「大橋謙策の電子書籍」があります。

ご参照ください。

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